握っている壊れかけの杖は灰にしてしまおう


強くなろうとしている人を理解できないように、自分を弱いと言う人のこともよくわからない。強い弱いの、力意外での意味がわからない。
心が弱いとは何でしょう。心が強いとは何でしょう。私はどちらなんでしょう。どちらかわかったところで、声に出すと相当胡散臭い。


「私は弱いの。」「私は強いの。」「僕は弱いんだ。」「僕は強いんだ。」


弱いからといって、強くなってほしいとは思わない。強いからといって、それをすごいとは思わない。
私は弱い人が好きだ。自分より少しだけ弱くて、ダメな人が好きだ。崩したいと思える、そんな人。

やぶれかぶれの諦めの果て何を見る?


物作りの終点を決めることは難しいなぁ、と改めて感じた。
数学のような答えはなく、自分が納得いくまで作り、描き、完成したものを、本当に作った本人は満足しているのか気になる。
「こうしたらもっといいんじゃないか。」「ここはズレているんじゃないか。」そういう思いが常に繰り返されたりしないのか。


「とりあえず完成」と「本当に完成」の二種類があって、「本当の完成」はデザインの世界に存在しないんじゃないかとふと思った。
マニュアル通りに行った作業には本当の完成はあるかもしれませんが、一から自分で決め、終わりも自分自身が決める作業には決断のような大きいものが必要だと感じる。
「完成=自信を持って人に見せられるもの」だと思っているので、そんな大きな完成を自分自身が決めるのはとても重い。
かといって、他人に「もうそれでいいじゃない。」と言われても納得できないのはよくわかっている。


難しい反面、こんなに楽しいことってないなぁ、とも思う。終わりのない遊びのよう。
自分で終了と決めるまでは、ずっとその楽しい時間が続くんです。だから、物作りは止められないのだと思う。
続ければ続けるほど、新しいものが見えてくる。そんな魅力に満ち溢れています。


「何かに新しく気付かなくなったら新鮮じゃなくなっていく。気付く為にはある程度冒険しないと、新しくは気付かない。」

これに乗るべきか次を待つべきか


懐かしいと思った刹那、頭は過去へワープして思い出を掘り返し今の感情へと繋ぐ。


自分だけならいい、もう辿ることはなくて脈だって止まらないから。問題は滑り込んだ挙句、相手の笑顔を自分の涙に替えるからダメなんだ。


彼女の喜びは私の悲しみで、私の喜びは彼女の悲しみ。彼女の悲しみは私の喜びで、私の悲しみは彼女の喜び。

そうやってお互い抜け出せないままだと思っていたけど、いつの間にかもう、いなかったね。


馬鹿なふりをしている彼女は頭が良い。本当に馬鹿なわたしはそれを傍観する。

ひとりで立てるなら、もう、必要はない。松葉杖になったんじゃない。延々と続いていく輪の中で、また次の順番が来るのを待つのは嫌だ。


味を覚えるように、一度でも触れたらもう元には戻れないんだろうか。

ゼロかマイナスのシラケたショー


すべて持っているのに辛いふりをして、ずるい。溺れそうになった彼女達には次々と浮き輪を投げてさ。
いつも間接的に、核心には触れず、閉じ込める。彼女達に事実を告げることもなく、恋人に明かすこともなく、終わっていく。


踏み台としての役目をこなすことに必死だったんだろうか。踏まれることに慣れたんじゃなく、踏ませることに慣れたんだ。

with or without


Syrup16gの「明日を落としても」をLyu:Lyuというバンドがカバーしたそうですね。


>なんかもう情報出たっぽいね。シロップのカバーやりました。
>ぶっちゃけ五十嵐さんに勝てる気など全くしないので恐縮の極地ですが、最大限のリスペクトを込めました。
>これがもし届くなら早く帰ってきてください


Twitterから引用。



いくつかyoutubeで彼らの曲を聴いてみたけど苦手です。

ちょっとやそっとで満足できない


雨が降れば顔のペンキは剥がれていった。心臓も動いていなかった。透けた手だって、掴むことはできなかった。
臆病になる度に現れるのはそれで、生に触れる度に苦しくなるのもそれ。命を吹き込んだのは私で、動き始めたのは彼の意思。


過去の自分を今に連れて来られないって泣き笑いながら言うから、一生手を繋いでいたいと思った。
冷たさが伝わってくるときも、熱が伝わってくるときも、どうしてだか泣きそうになる。軋む音をほんの少しでも感じたい。澄ます耳は役立たずじゃない。


手を伸ばしたところで届くわけがないってぼやいていた。伸ばしていないどころか、立ってすらいなかったのにね。

すれ違ったあの日から誰とも会っていないの


恋人がほしいから、という理由で出会いを求める人は不純だと思っている。
それなら、友達がほしいから、という理由で出会いを探す私も不純なのかな、と思った。


今の時代、インターネットで誰かと出会うことは普通だと思っているけど、それを気持ち悪いと思っている自分もいる。
それは多分「出会い厨」と言われるのが怖かったり、出会った経由を聞かれたときに「インターネットで」と答えることに抵抗があるから。


でも、私は現実での人との出会い方がわからない。学校やサークルやバイトや友達の紹介や、そういうものがない。知り合いと友達は違う。
きっと今までそういうチャンスを与えられたこともあったかもしれない。自分で思っているより、人が私を見る目は違うかもしれない。
それでも私はそれを信じることができなかったし(今も信じていない)、怖くてすぐに逃げ出してしまっていた。


そんなときにインターネットというものを知って人と出会い、現にネット上の人に支えられたときもあった。
インターネットで出会うことの一番のメリットは、内面から入ることだと思う。(自分の顔写真を晒している人は別として。)
だから必然的に外面が後付けと言うことになる。それがインターネットでのデメリット。
内面を気に入られても、外面を気に入られなかったらどうしよう。今まで散々言われてきた外面を良く思われるはずがない。


だから、それ以上のことが怖くて出来なかった(実際に遊んだりオフ会をすること)。
ネット上はネット上と割り切っていたし、その為に嘘もたくさん吐いていた。というより、皆そういうものだと思っていた。


いつからかそれに虚しくなってぱったりと辞めたけれど、当時の依存から抜け切れていない気がする。


仲良くなりたい人がいるのに、怖くて後一歩が踏み出せない。
それが良いことなのか悪いことなのかはわからないけど、今は進んでみたい。


なんてことを思った日曜日の昼下がり。きっと実行することはない。外では発情した猫が何匹も鳴いている。